(現、陸自航空学校霞ヶ浦校、茨城大学農学部、東京医科大学霞ヶ浦病院、キリン協和フーズ、井関農機、農地、住宅地他)
霞ヶ浦海軍航空隊本部地域の模型 (陸上自衛隊霞ヶ浦駐屯地史料館蔵) 陸上自衛隊によってかなり緻密に製作された模型で、当時の様子を視覚的に認識するのに非常に有用なのでここに掲載させていただいたものである。 以下の記事をご覧になる際の参考とされたい。 なお、方角は、ちょうど写真上方が北の方向になる。 霞ヶ浦海軍航空隊は大正時代に編成された航空隊の1つで、広大な敷地と多数の施設を有していた。 |
霞ヶ浦海軍航空隊正門跡 『阿見と予科練』所載の対比地図によれば、写真中央付近両側の電柱の辺りが正門門柱の跡地らしい。 ここにあった石造の門柱は、近くにある阿見小学校に一部移設され、同小学校の正門として利用されている。(「霞ヶ浦海軍航空隊門柱」) 下の写真は同じ場所の戦前の写真である。 |
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霞ヶ浦海軍航空隊本部地区北側境界の現状 霞ヶ浦海軍航空隊本部地区の北側境界は、バイパス沿いに一直線の道路として残っており、識別容易である。 本部跡地にある東京医科大学敷地の一部には古い大谷石を積み上げた植え込みがあり、石の風化具合から見て、海軍時代に作られた物か、あるいは海軍の石材を転用して戦後作った物ではないかと思われる。 また左4枚目の写真にあるように、コンクリート製の柱も残っている。これはおそらく海軍時代の外柵の一部だと思われる。 |
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旧霞ヶ浦海軍航空隊本部正門跡及び衛兵詰所跡 (茨城大学農学部敷地北部) 左の写真は霞ヶ浦海軍航空隊本部正門跡地で、門柱は当時のものである。 向かって右側の門柱には、「本部」と書かれた表札が掲げられていた。(本項下から2番目の写真参照) なお、この門柱になる前は木製と思われる背の高い門柱が立っていた。(本項一番下の写真参照) 上の写真の写真左の茂み付近が衛兵詰所跡で、その奥には霞ヶ浦神社があった。 同神社にあった霞ヶ浦神社標柱や記念碑等は近傍に移設されて現存している。 旧霞ヶ浦神社社殿は、占領軍に冒涜されることを避けるため、近くにある阿彌(あみ)神社(阿見町中郷)に移築され現在も残っている。 また、同写真右端の樹木の向こう側に木造の本部庁舎があったが、取り壊されて現在は駐車場になっている(下記参照)。 (平成23年2月17日・19日、本項一部修正済み) |
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旧霞ヶ浦海軍航空隊本部庁舎跡 前述のとおり、現在は駐車場となっていて建物の痕跡は何も無い。 部材の一部は、新設された大学の建物に利用されているという。 下の写真の2基の古い石灯籠は、海軍時代のものと思われる。 |
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旧軍艦旗掲揚塔基部 (茨城大学農学部敷地北部) 茨城大学農学部構内の植え込みの中に基部のみが残っている。 この場所は、今はなき霞ヶ浦海軍航空隊本部庁舎の正面に当たるところである。 旗竿自体は既に撤去されている。 旗竿の材質は不明だが、おそらく木材だったのではないかと考えられる。 掲揚塔の基部の材質は堅固なコンクリートで、鉄製の旗竿保持金具もまだ残っている。 |
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霞ヶ浦神社社殿跡 霞ヶ浦神社の跡地に残る社殿の基礎のコンクリート製基礎である。 社殿は近くの阿彌神社に移設(旧霞ヶ浦神社社殿)されている。 なお、インターネットの個人サイトで、「霞ヶ浦神社の社殿は阿見町竹来(たかく)の阿彌神社に移設されている」という趣旨の誤った記事が数カ所確認できるが、竹来の社殿は海軍とは関係ない。 中郷の阿彌神社にあるものが旧霞ヶ浦神社社殿である。 この件は、地元の『阿見と予科練』にも明記されていることである。 中央の写真は近くで見たところで、鉄筋が一部露出している。 下の写真は、社殿跡から参道跡を見通したところだが、参道の痕跡は全くない。 |
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方位盤 (茨城大学農学部敷地北部) 霞ヶ浦神社跡に残るコンクリート製の方位盤で、戦前に民間から寄進されたものという。 表面には方角と主要な都市名が刻まれている。 直径は約2メートルで、一部表面が剥離しているが、全体的に保存状態は良い。 大学の構内なのでもちろん説明板さえ建てられておらず、完全に放置されている。 |
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(平成13年5月6日、平成21年9月12日、平成23年2月17日、同月22日、同年4月17日改訂)