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1 サイパン島の概要 サイパン島はマリアナ諸島の島々の1つであり、日本から南へ約2,400km、北緯15度13分、東経145度43分に位置します。 面積は約185平方kmで、伊豆大島の約2倍の広さです。 珊瑚礁に囲まれた美しい島で、西海岸沿いが平坦地であり島民の主な生活地域となっています。 1521年にスペインのマゼランがマリアナ諸島に到達して上陸、その後1565年スペイン領となり、他の植民地で行ったと同様に島民の虐殺などの苛烈な政治を行いました。 アメリカ・スペイン戦争後の1898年、マリアナ諸島はドイツに売却されましたが、第1次世界大戦後に当時の国際連盟の信託統治領として日本が統治することとなりました。 大東亜戦争時は「絶対国防圏」の重要な一角として米軍との間で激戦が繰り広げられましたが、昭和19(1944)年に守備隊が玉砕し米軍に占領されてしまいました。 戦後は、米国の国際連合信託統治領となりました。 1981年、住民投票により独立ではなく米国の自治領へ移行することが決まり、自治政府である「北マリアナ連邦」が樹立され、今日に至っています。 2 「絶対国防圏」の強化 (1) 東條陸軍大将の参謀総長兼任 昭和19(1944)年2月21日、東條英機陸軍大将は、首相兼陸相のまま参謀総長に親補されました。 この兼任の主な動機の一つは、国務と統帥の緊密を図るものであり、その補佐を重視して参謀次長の二人制をとりました。 (2) 航空機の生産増強 昭和18(1943)年後半期になってから航空機増産のため各種施策を実施するとともに、関係各方面の努力により、生産量は昭和19年になって増産の一途を辿りました。 1月には月産1,815機だったものが、6月には2,857機(大東亜戦争中の最高記録)になりました。 しかし、陸海軍の要望(陸軍32,000機、海軍26,000機)には遠く及びませんでした。 (3) 船舶問題 米軍の反攻開始以来、日本側の船舶喪失は急速に拡大し、開戦前の見積を大きく上回っていました。 到底、新造船で補える様な範疇ではなかったのです。 そこで、船舶護衛問題に多大の努力を払うこととなり、海上護衛司令部を設置するほか、戦時急造船の建造、輸送用潜水艦、護衛用特殊船の建造、電波兵器の生産、輸送船の武装等の対策を講じました。 しかし、実際にはさほど大きな成果を上げることは出来なかったようです。 (4) 中部太平洋に対する兵力増強 昭和18年末以来、米軍の侵攻速度と躍進距離は次第に増加、内南洋に対する攻撃は時間の問題と予想されたので、中部太平洋の防備を速やかに強化すべく逐次処置をしました。 海軍は、昭和19年2月中旬、連合艦隊司令部がパラオに進出して作戦指揮を行い、水上部隊主力の前進根拠地をパラオに移し、第一航空艦隊主力をパラオ及びフィリピン方面に進出・待機させました。 2月中下旬、陸軍は第二十九師団を満洲からこの方面に転用、新たに編成した第一から第八派遣隊を派遣して連合艦隊司令長官の指揮下に入れると共に、要塞部隊を増強して父島守備隊を強化しました。 また、2月23日に第三十一軍が編成され、これも連合艦隊司令長官の指揮下にはいることになりました。 3月には諸兵団輸送作戦(「松輸送」と呼称)を実施し、5月下旬には次のような配置となりました。 以上の配置に基づいて、各部隊は築城に着手し、防備強化を図りました。 また、陸海軍中央協定を確立し、陸海相互の協同を緊密にすることに努めました。 3 防御準備 サイパン島には、第三十一軍司令部(軍司令官:小畑中将)をはじめ、第四十三師団(師団長:斎藤中将)主力、独立混成第四十七旅団(旅団長:岡大佐)、戦車第九聯隊等の陸軍約27,500名の守備兵力の他、海軍の中部太平洋方面艦隊司令部(司令長官:南雲中将)、第五根拠地隊司令部、第五十五警備隊等が位置していました。 各部隊は昭和19年春頃から防御陣地の工事に着手しましたが、サイパン守備の骨幹兵団である第四十三師団は米軍上陸の約1ヶ月前に到着したばかりで、米軍が来攻したときにはまだ海岸沿いに軽度の陣地を概成したばかりでした。 コンクリート製のトーチカや監視哨が海岸付近に作られてはいましたが十分な防備が為されていたとは到底言えない状況でありました。 また、肝心の第四十三師団は、海上輸送中に歩兵第百十八聯隊が海没したため、師団といっても実質的には約5個大隊程度の戦力しかありませんでした。 サイパンの防御方式は、水際(すいさい)撃滅を主として主抵抗陣地を海岸近くに構築していました。 しかし、これが米軍上陸時の兵力の早期損耗につながることになりました。 後に行われる硫黄島での島嶼(とうしょ)防衛作戦では、小笠原兵団長栗林中将による洞窟陣地による内陸での消耗戦が行われましたが、これはサイパンなどでの教訓を活かしたものです。 なお、米軍上陸時、第三十一軍司令官小畑中将はヤップ島に出張中でしたが、そのままサイパンに戻ることができなかったため、サイパンでは井桁第三十一軍参謀長が軍司令官代行となりました。 4 防御戦闘 6月11日から米軍の攻撃準備射撃・爆撃が開始され、同月15日朝から米軍部隊が上陸を開始しました。 当初、独立山砲兵第三聯隊野戦重砲大隊(大隊長 黒木少佐)による海岸付近の米軍上陸部隊への効果的な射撃により一時足止めすることには成功しましたが、その後、圧倒的な戦力差を覆すことはできませんでした。 そして、陸海軍守備隊の勇戦敢闘も及ばず、避難する民間人も巻き込みつつ後退を重ね、7月6日には南雲中将・斎藤中将・井桁少将ら陸海軍首脳が自決、翌7月7日にはガラパン奪回を目標として残存兵力をもって総攻撃を敢行しましたが部隊は壊滅し、組織的戦闘は終焉を迎えたのでした。 5 マリアナ諸島の失陥 (1) マリアナ諸島の失陥 サイパン占領後、米軍は、7月8日から21日まで連日砲爆撃を反復し、21日早朝1コ海兵師団と1コ歩兵師団をもって上陸を開始しました。 守備隊は、洞窟陣地に拠って頑強に抵抗しましたが、弾薬が欠乏して米軍戦車を制することが出来ず、8月10日、小畑第三十一軍司令官以下全員が玉砕しました。 米軍は、グアムに続いて7月24日、2コ海兵師団をもってテニアン島に上陸。 歩兵第五十五聯隊を基幹とする守備隊は、激戦9日にして玉砕しました。 この際、同島に位置していた第一航空艦隊司令長官角田中将も守備隊と運命を共にしました。 (2) マリアナ諸島失陥後の戦闘指導 不落と信じられていたマリアナ諸島の喪失によって、我が絶対国防圏の一角に大きな穴が空いてしまい、深刻な事態を招来しました。 特に問題だったのが、米軍がサイパン・グアム等を基地として日本本土を爆撃できるようになったことでした。 B29による長距離爆撃は、それまで支那大陸を拠点として九州に来襲するものでありましたが、マリアナ諸島を基地として本格的な本土爆撃が可能となったことは大きな脅威でした。 大本営では、防衛戦の最中から、マリアナ諸島の重要性を重視し、あくまでもこれを奪回すべしとの意見が有力でしたが、海軍がマリアナ沖海戦で空母を多数喪失したため制海権・制空権を回復することは出来ず、増援兵力を輸送できる見込みも無いことから、最終的に奪回は断念されました。 大本営は昭和19年7月18日1700、サイパン島守備隊玉砕を発表しました。 また、今後の作戦指導を決定し、比島・台湾・南西諸島・本土・千島にわたる線を第一線として防備を強化することになりました。 これが「捷号作戦」です。 同日、重臣達の倒閣運動の結果、東條内閣は総辞職し、後任内閣として小磯・米内連立内閣が成立しました。 また、サイパン島での作戦を計画した大本営陸軍参謀晴気誠少佐は、水際撃滅に失敗した責任を強く感じ、作戦指導のためサイパン島への派遣を志願しましたが、硫黄島から先には行くことが出来ず、サイパンへの落下傘降下まで懇願しましたが果たせず、サイパン島玉砕という結果に対して終戦までその責任にさいなまれていました。 晴気少佐は、昭和20年8月17日早朝、市ヶ谷台上で自決しました。 |