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東地区隊(長:伯田義信少佐)は、独立歩兵第314大隊を基幹とし、小笠原兵団直轄であった。東地区隊地区には、陸軍約3,600人、海軍約600人が配置されていた。 混成第二旅団野戦病院壕群
神山海岸の北、自衛隊硫黄島基地の近くにある野戦病院壕群の近くに建てられた石碑で、この奥のジャングルのような所に地下壕がある。
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野戦病院壕入口
入口は勿論数カ所あったが、この入口は険しい岩場の中にあり、患者の出入りには使われなかったものと思われる。
硫黄島戦当時、病院壕は負傷者であふれ、収容しきれない患者は他の部隊の地下壕に収容したという。また、壕内は負傷者の血で床が滑り、遺体の放つ臭気も大変ひどかったという。
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病院壕付近の植生
この辺りは硫黄島に元々群生していた植物が蘇って生い茂っており、米軍来攻前の状況はこういう感じだっただろうと言われている。
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大塚工兵隊壕
石柱には、「混成第二旅団工兵二中隊壕群」と刻まれているが、これは誤りで、硫黄島戦当時の名称は、「臨時工兵聯隊第三中隊」である。或いは旅団改編前の旧名称を刻むのであれば、「混成第二旅団工兵隊」が正しい。この部隊は、隊長の名をとって、「大塚工兵隊」と呼ばれている。
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大塚工兵隊本部壕入口
爆風よけのため入口は低いところに作られている。
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入口脇の朽ち果てた鉄帽
地下壕入口の脇に置かれている陸軍の九〇式鉄帽。遺骨収集時に壕内で発見された遺品である。
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入口付近の遺品等
水筒や防毒面の吸収缶、飯盒の蓋などが置かれている。
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壕内の個人用スペース
ちょうど人1人が横たわることのできるくらいの広さである。個人用といっても、人数分作られていたわけではないので、交替で使ったか上級者だけで使ったかのいずれかであったと思われる。
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地下壕の通路
形状や仕上げなどが一般部隊の壕とは明らかに異なっており、地下壕掘削の専門部隊が作った模範的な壕であると言われる。
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西大佐戦死之地碑
戦車第二十六聯隊長の西竹一中佐(陸士36期。戦死後大佐に昇任)が、海岸伝いに兵団司令部に向かう途中戦死したと言われている場所である。ただし、大佐の遺体は発見されていないので真偽のほどはわからない。
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西大佐の碑
上の写真の碑から300メートルくらい離れた台上に設置されている慰霊碑であるが、これは先ほどの碑が作られてからかなり経ってから付近の見晴らしの良い場所に改めて建立された物で、戦死推定場所はあくまでも上の写真の碑がある場所である。
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碑に置かれている遺品等
付近で回収された銃弾などが多数置かれている。
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碑の前から摺鉢山方向を見る
ここからは山は見えないが、何もない荒涼とした風景が広がっている。
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