硫黄島の戦跡

(東京都小笠原村硫黄島)

 

天山慰霊碑

 

日本戦没将兵慰霊碑(天山慰霊碑)

天山(てんざん)慰霊碑は、昭和46年3月26日に厚生省が日本戦没将兵の慰霊碑として建立した。

写真にはないが向かって左隣に納骨堂がある。これは昭和60年4月に建立された。

慰霊碑自体は白木の箱を白布で覆った形状をしており、その天井は開口している。これは、暗い洞窟内で太陽を見ることも出来ず、水を飲むことも出来ずに散っていった将兵の御霊が、太陽を見られるように、そして雨水を受けられるようにと敢えて空けているものである。

この天山慰霊碑は、硫黄島を訪れた人は誰もがまず始めに必ず参拝する場所である。

天山慰霊碑前から摺鉢山を望む

写真中央やや霞んで見える山が摺鉢山である。

天 山

実は、天山慰霊碑の建立されている場所は厳密には天山ではなく、納骨堂の脇から左手に見える山が天山である(写真中央やや黄色がかったところ)。ここには、海軍の指揮所があった。

写真左下の蒸気は地下から噴き出している硫黄ガスと水蒸気である。

摺鉢山地区隊地域@

ここからしばらく、島の南西部の摺鉢山地区隊地域を巡ります。

摺鉢山(すりばちやま)

通称「飛行機を利用したトーチカ」の前から見た摺鉢山。

この山は硫黄島の最も重要な緊要地形の1つであり、米軍の砲爆撃により山の4分の1が吹き飛び、形が変わってしまったことでも有名である。

現在は舗装道路が頂上まで通じており、車両で登ることも出来る。山頂からは島中を見渡すことが出来る。

頂上には慰霊碑等が建立されている。

日本軍将兵顕彰碑

摺鉢山山頂に建てられている「日本軍戦没者顕彰碑」には、各都道府県の石がはめ込まれている(ただし、以前台風で碑が転倒し斜面に転落した際に一部欠落してしまっている)。

これは、硫黄島を守った将兵の出身地が全国にまたがっていたことと、日本全国からの慰霊の気持ちを表したものである。

第一・第二御楯特別攻撃隊慰霊碑

第一御楯(みたて)特別攻撃隊とは、大村謙次海軍中尉率いる12機の零戦と2機の偵察機「彩雲」からなる特別攻撃隊である。昭和19年11月27日午前8時、硫黄島千鳥飛行場から飛び立った攻撃隊はサイパンの米軍基地を攻撃した。 24日にB29が東京を空襲したため、その基地であるサイパン島を奇襲しB29等を破壊するのが目的であった。 レーダーに捕捉されないよう海面すれすれの高度で1,000キロ以上飛行の後、攻撃隊は地上で出撃準備中のB29へ銃撃を加えた。しかし猛烈な対空砲火と執拗な米軍機の追撃のため生還したのはわずかに偵察機の彩雲1機だけであり、当時は戦況や戦果が不明のままであった。 戦後になって、4機のB29を完全に破壊炎上、6機を大破、23機を小破させるという予想以上の大戦果を挙げていることが判明した。 また、大村攻撃隊長は、全弾を撃ち尽くした後、サイパンのアスリート飛行場に強行着陸、拳銃を手に単身米軍陣地へ突撃を行い、米兵との銃撃戦の末に戦死していたのである。 さすがの米軍も大村隊長の勇敢な行動に驚嘆し、遺体を手厚く葬っていたという。

第二御楯特別攻撃隊は、千葉県の香取海軍航空隊で編成された22機からなる特別攻撃隊である。昭和20年2月16日、香取の六〇一航空隊(空母の飛行隊として訓練を受けた精鋭部隊であったという)に特攻隊の編成が下令された。 隊の編成に当たっては、2人乗りの艦上爆撃機「彗星」や3人乗りの艦上攻撃機「天山」の偵察員や電信員をわざわざ搭乗させるかどうかが問題となった。しかし、搭乗員達の「死ぬときは一緒と誓い合ったのに、体当りには不要だからといって降りるわけにはいかない。」との熱望があり、結局全機が定員どおりの搭乗員で出撃することとなった。 隊は、基地から出撃後硫黄島上空に到達、2月21日夕、1機が米正規空母「サラトガ」の艦首に体当りして猛烈な火災を起こし、もう1機が側面に命中して格納庫を爆発させた。 更に1機は命中直前で撃墜されたもののそのまま海中を突き進み、艦の喫水線下に大きな穴をあけた。 更に1機が甲板に激突し火災を拡大した。 「サラトガ」は大破して、この後本国に回航されて修理されたが、戦場には戻ることができなかった。 また、護衛空母「ビスマルクシー」には2機が飛行甲板に体当りし、戦闘機部隊を収容したばかりの同艦は艦内で誘爆を引き起こし、350名の乗員を乗せたまま沈没した。

米海兵隊上陸記念碑

米軍が山頂に立てた記念碑。記念碑には、ここを訪れた海兵隊員たちが残していった新旧各種の認識票が鈴なりに掛けられている。

これは、硫黄島で戦った海兵隊員を見習って勇敢な兵士になるという気持ちを表すために残していくものだという。

星条旗を立てた場所の記念標識

米軍記念碑の裏側にある小さなもので、地面に埋め込まれている。

星条旗を立てたJohn H. Bradleyという兵士の遺族が設置したものである。

海軍水平砲台跡(一番砲)

摺鉢山の麓には旧式の重巡洋艦(戦艦という話もある)の副砲として使われていた14糎(サンチ=センチ)砲などが配置された。

写真の砲は「一番砲」と言われている砲であり、元々は鉄筋コンクリートの重厚な掩蓋に入っていたが、今は正面と天井が完全に無くなっている。

俗に、米軍の艦砲射撃により破壊されたためだと言われているが、実はそうではなく、米軍の艦砲射撃によりある程度破壊はされたのだが、戦後も天井など掩蓋の大部分は残っていたという。

しかし、硫黄島協会による遺骨収集の際に天井のコンクリートが崩落する危険があったためにこれを撤去したものだという。

ところで、この一帯の海軍砲台は十数門あり、本来は米軍上陸後まで沈黙して、上陸後一斉に海岸の米軍を粉砕する計画となっていた。

ところが、実際には栗林兵団長の命令に反して敵主力の上陸前に掃海作業に来た敵舟艇などを砲撃してその位置を曝露してしまい、米艦の集中砲火を受けて全滅してしまったという。

この射撃については「勇み足」とか「日本側唯一の失敗」などと評され、主力上陸前に射撃を行なった海軍砲員を批判する向きが多く、実際、この砲台は俗に「勇み足砲台」などとも呼ばれている。

海軍がなぜ射撃したのかは今となっては明確なことはわからないが、「海軍砲台が射撃した時には既に連日の艦砲射撃により全滅寸前であったため、座して全滅する前に一矢報いようとしたのだ。」という主張もある。

また、数門の砲が破壊された後、それらの中から使える部品を寄せ集めて1門の砲を復元して戦い続けた砲台もあったという。

海軍水平砲台跡(二番砲)

上に紹介した砲はよく見るもので有名なものだが、その近くに崩れたコンクリートの掩蓋から顔を出している砲がある。

この砲も米軍により破壊されたが、往時の様子を比較的よくとどめている。

この砲は先ほど見た一番砲とは違って、上に乗って記念写真を撮ったりすると後で怪我をするという曰く付きの砲だという。

弾薬庫(?)跡

摺鉢山の麓、海軍砲台へ登る道の入口脇にある、弾薬庫跡と言われる建物。

ただし、これは、日本軍ではなく米軍が戦後建てたものだといわれている。

(平成14年1月5日初掲)