硫黄島の戦跡

(東京都小笠原村硫黄島)

硫黄島の歴史

1 硫黄島の概観

硫黄島(戦前は「いおうとう」と呼称していた。)は、東京から南へ約1,250km(北緯24°47’、東経141°19’)、父島から260km、サイパン島の北方約1,100kmに位置する「絶海の孤島」で、現在の住所表示は東京都小笠原村硫黄島である。

北硫黄島と南硫黄島を含めた「硫黄列島」中最大の島で、面積は約20.1平方キロ、小笠原諸島を含めて唯一の平坦な台地状の地形を有し、島の南西端にある摺鉢山(すりばちやま)を扇の要として東北に広がり、しゃもじのような形をしている。 北東〜南西の長さが約8.3キロ、東西幅は最大約4.5キロ、一番狭い千鳥ヶ浜東西において約800メートルしかなく、大部隊が行動するには非常に狭い島である。  

硫黄島は、地質学上は富士〜伊豆七島の系列にあり、小笠原列島とは別の地質である。 島は火山島で現在も活動中。 島内の各所で硫気及び水蒸気が噴出している。 標高は、一番高い摺鉢山で169m、島の大部分を占める北東部の台地で約100〜110mであるが、島は地殻変動により年々隆起しており、場所によっては昭和20年当時に比べてすでに10メートルほど高くなっている。 たとえば、上の写真の右側の海岸(南海岸)の黒い部分は戦争当時は海中であり、当時の海岸線はその陸地側の緑色の部分の線であるという。

島は、砂と土丹岩(どたんがん)に覆われており、地熱が高く、保水力もないため慢性的な水不足に見舞われる。 水がないので河川は全くなく、湧水もない。 現在自衛隊硫黄島基地では、海水淡水化装置や雨水収集濾過装置をもって水を確保しているが、それでも基本的には水不足であり、在島勤務者はもちろん来島者に対しても節水が呼びかけられている。 

気候は、緯度からいうと亜熱帯であるが、実際の温度からは熱帯であり、周囲に遮るものがないため純然たる海洋性気候である。 気温は、暑いときには摂氏40度近い時もあり、年間平均では23.6度である。 12月から4月の間は比較的涼しくなるものの、5月から11月までは暑く、平均23〜27度である。 海水浴は現在禁止されている。 年間降水量は2,500mm、年間の降雨日数は80日で、4〜6月頃に雨が多く降る。

島の植物は熱帯性のものが多く、オオタニワタリ、竜舌蘭、月下美人、桑の木、タコの木、ブ−ゲンビリア、ハイビスカス、パパイヤ、バナナ、ヤシなどが自生している。 なお、島内で最も多く繁っている銀ネムは、戦後の焼野原に米軍が種を空中散布したもので、元々島にあったものではない。 従って、現在の硫黄島の植生は戦争中とはかなり異なるので注意が必要である。

硫黄島には現在民間人(自衛隊施設建設関係の建設業者等を除く。)は居住していないため、民間の交通手段は存在しない。 島への交通は、航空自衛隊の輸送機による航空輸送だけであり、島に行けるのも、基本的に厚生省や硫黄島協会の遺骨収集団か自衛隊関係者だけである。 従って、個人的に訪問したいとか観光目的での入島はできない。

2 硫黄島略史

北硫黄島、硫黄島、南硫黄島の3島からなる硫黄列島は、西暦1543年、スペインのベルナード・デ・トレースによって発見されたといわれる。 その後、英国のキャプテン・クックの部下ゴアが1784年に列島を確認してサルファランド(硫黄島)と命名した。 又、ロシアのクルセンステルンも1805年にこの列島を認めたと言われるが、いずれにしても、その後長い間無人・無所属の島として放置された。

その後、小笠原諸島には、1830年に5名の欧米人及び20数名のカナカ人が来島、明治9年の開拓当初の時点で71名の先住民がいた。 彼らはその後日本国籍に帰化したが、大部分は父島の大村に居住しており、硫黄島には住民はいなかった。 明治20年11月、東京府知事ら視察団が初めてこの列島を視察、明治24年(西暦1891年)9月、日本政府は正式にこの列島を日本領土に編入し、北硫黄島、硫黄島、南硫黄島と命名し、小笠原支庁管轄とした。

いつから硫黄島に住民が住み始めたのかははっきりしないが、昭和18年6月の調査では、192戸1,018人が在島していた。 硫黄島の産業は、当初は父島を基地とした漁業が主体であったが、その後、硫黄、燐鉱などの採鉱が盛んになった。 現在の「硫黄丘」付近で硫黄の採掘が行われていて、いまでも機械の一部らしき残骸などが少しながら散見される。 農産物としては、砂糖きびや薬用植物などが栽培されていたが、島の土質や気候の関係上、現地で自活できる程度の消費程度の畑を有した他は、米をはじめ食料類は全て内地からの移入に依存していた。 小笠原諸島と東京間には、戦前は年に24回の定期便があり、その内6便が硫黄島まで伸びていた。

大正12年、海軍は対米作戦をにらんで主力の決戦線を小笠原諸島に設定し、昭和8年には硫黄島に海軍の飛行場を仮設した。 それでも、その後しばらくの間、硫黄島は大部隊が展開することもなく、平穏に過ぎた。

昭和16年(西暦1941年)12月8日、大東亜戦争が開戦した。 開戦当初は優勢だった日本軍だったが、時間の経過とともに戦局は不利となっていった。

昭和19年2月1日、連合軍はクェゼリン、ルオットに上陸、2月4日には日本軍守備隊が玉砕した。 その頃小笠原地区では、2月5日、第44・45・64・41・67・68要塞歩兵隊、第7要塞山砲隊、第22要塞工兵隊が動員され、父島要塞司令官の隷下に編入され、続いて21日には、第54・56・61・66要塞歩兵隊が動員、同じく父島要塞司令官隷下に編入された。

同年25日、中部太平洋防衛を担任する陸軍の第31軍戦闘序列が下令され、父島部隊が第31軍戦闘序列に編入された。 また、海軍では、中部太平洋艦隊が新設された。 2月29日には、米陸軍部隊がアドミラル島に上陸している。

3月8日、ビルマ方面でインパール作戦が開始され、4月22日には連合軍がホーランジャ・アイタベに上陸した。 5月5日、「あ」号作戦命令、5月9日には、西部ニューギニアにおける確保要線の後退が発令された。

5月22日、第31軍戦闘序列が更改され、第109師団が編成された。 その5日後の27日には、東部軍司令部附だった栗林忠道陸軍中将が第109師団長に親補された。 またこの同じ日に、連合軍がビアク島に上陸している。

6月8日、栗林師団長は師団司令部を父島から硫黄島に推進、これ以降師団長は一度も島を出ることはなかった。 元々、硫黄島は師団隷下の守備隊の管轄地区であり、島の防衛は現地の指揮官に任せておけば良かったのであるが、栗林師団長は硫黄島防衛を重視して自ら島に乗り込んだのである。

6月15日、連合軍がサイパン島に上陸、「あ」号作戦発動。

同日、米軍機が硫黄島・小笠原諸島を空襲した。 19日には、歩兵第145聯隊・速射砲第8〜12大隊・中迫撃砲第2〜4大隊が第31軍に増強された。 

6月19〜20日、マリアナ海戦、20日、「あ」号作戦が失敗した。 24日、硫黄島に米艦載機が来襲し、上空で大空中戦となった。 この米空母艦隊による攻撃は7月7日まで続いた。

6月26日、小笠原兵団戦闘序列が下令された。 同日、栗林中将の上申を受けた政府は、小笠原・硫黄島島民の強制疎開を指示した。 この際、栗林師団長は、サイパンが陥落したら和平交渉を始めるべきだとの上申もしたが途中で握りつぶされたという説もある。 なお、小笠原兵団の部隊区分は次のとおりであった。

小笠原兵団長: 栗林中将

1 混成第2旅団

  欠除部隊: 独立歩兵第314大隊、混成第2旅団工兵隊、兵器修理班、混成第2旅団野戦病院

  配属部隊: 独立機関銃第1大隊(第2中隊欠)、独立機関銃第2大隊、独立速射砲第8・9・10・11・12大隊、歩兵第145聯隊砲兵大隊、中迫撃砲第2・3大隊、独立臼砲第20大隊、噴進砲中隊、突撃中隊

2 東地区隊

  独立歩兵第314大隊

3 北地区隊

  独立混成第17聯隊第3大隊、独立機関銃第1大隊第2中隊

4 高射砲隊: 海軍に配属

  第109師団高射砲隊(第1中隊、第4中隊1コ小隊欠)、特設第20・21機関砲隊

5 工兵隊(後に臨時工兵聯隊に改編): 長 前川少佐

  混成第1旅団工兵隊(工兵第1中隊)、混成第2旅団工兵隊(工兵第3中隊)、工兵第2中隊、要塞建築勤務第5中隊、歩兵第145聯隊工兵中隊(1コ小隊欠)

6 警戒隊: 海軍に配属

  第109師団警戒隊

7 師団直轄部隊

  歩兵第145聯隊(砲兵大隊、工兵大隊欠)、戦車第26聯隊(配属 混成第2旅団兵器修理班)、第109師団通信隊、独立混成第17聯隊通信隊、船舶工兵第17聯隊1コ小隊、混成第2旅団野戦病院、野戦作井第21中隊

7月4日、独立混成第17聯隊、戦車第26聯隊等が硫黄島に増強された。 また、同日、7月1日から実施されていた要塞歩兵隊等の混成旅団への改編が完結した。 独立混成第2旅団の編成(配属欠除部隊を除く)は下記のとおりであった。

独立混成第2旅団司令部: 旅団長 大須賀少将(12月16日からは千田少将に交替)

独立歩兵第309大隊: 大隊長 粟津大尉

独立歩兵第310大隊: 大隊長 京極大尉(12月13日からは岩谷少佐)

独立歩兵第311大隊: 大隊長 芦屋大尉(12月13日からは辰見少佐)

独立歩兵第312大隊: 大隊長 長田(おさだ)大尉

独立歩兵第314大隊: 大隊長 伯田大尉

混成第2旅団砲兵隊: 隊長 前田少佐

混成第2旅団工兵隊: 隊長 大塚中尉

混成第2旅団通信隊: 隊長 小園中尉(19年12月1日附で大尉)

混成第2旅団野戦病院: 松本大尉、野口軍医大尉

7月4日、米艦隊が硫黄島を艦砲射撃。小笠原も空襲を受ける。

7月7日、サイパン島守備隊が玉砕、南雲忠一海軍中将以下約4万名、在留邦人約1万名が戦没したと言われる。

7月10日、硫黄島民195人が疎開船で東京へ向け出航。 16日には硫黄島民573人、父島・母島島民723人を乗せた疎開船が横須賀へ向け出航。 ただし、約130名が軍属として徴用されて硫黄島に残った。

7月21日、連合軍がグアム島に上陸、23日にはテニアン島にも上陸した。 8月3日、激戦の末テニアン島守備隊が玉砕。 角田覚治海軍中将以下約5千名と在留邦人約3千500名が戦没した。

8月4日、最後の疎開船団が父島を出航。 同日その内の4隻が米軍に撃沈され、島民13人を含む20数人が死亡した。 4月以降疎開した人の合計は硫黄列島で1,094名で、小笠原全体では6,886名を数えた。

8月10日、グアム島守備隊玉砕。 小畑英良陸軍中将以下19,135名が戦死。 米軍はこれでマリアナ諸島を手中にし、日本本土空襲の拠点を確保した。 その結果、B29の航路の途中にある日本の航空基地は硫黄島だけとなり、硫黄島は最前線となった。

8月11日、特設第43〜46機関砲隊が小笠原兵団に編入、同月29日には独立機関銃第1・2大隊、特設第20・21機関砲隊が小笠原兵団に編入された。

9月15日〜17日、米海兵隊・陸軍部隊がパラオ諸島(ペリリュー島、アンガウル島)に上陸、守備隊は事前に準備した洞窟に立て籠もって持久戦により米軍に多大な損害を与えた。 それまでの日本軍は、水際陣地による水際撃滅戦法を採用していたが、いずれも上陸前の艦砲射撃によって大きな損害を出し、十分な戦いが出来なかったため、ペリリューからは縦深陣地による出血持久戦法に変更されたのである。 この戦法は、後に硫黄島でも効果を上げることになる。 

栗林兵団長は、サイパンやグアムなどの水際撃滅思想が米軍には通用しないことをみて、質量ともに優る米軍に対抗するため、島の地下に坑道を掘り、そこに立てこもって持久戦を行う作戦を立てた。 洞窟陣地の構築は米軍の上陸直前まで数ヶ月にわたり続けられたが、硫黄島の地下は猛烈な暑さと硫黄ガスのため、なかなか作業は進まなかった。 作業にあたっては、部隊を何コにも区分して1コ作業隊1回3分を基準として掘削作業に従事させたという。 実際に入ってみればわかるが、壕内の温度は数十度、猛烈な暑さと湿度、硫黄ガスで3分でも苦しいほどである。 真面目な兵は10分20分と連続して作業をしたが、そういう人は次々に倒れていったという。 また、陣地を作るのに必要なセメントなどの築城資材も絶対量が不足していた。 兵站は陸海軍別系統であり、セメントは海軍がほとんど独占していたため、陸軍側はセメントを分けてもらうために海軍の作戦要求(水際の飛行場の防衛確保等、戦術的に妥当性を欠く内容であった)を渋々受け入れるということまでやった。 しかし、物資不足は如何ともしがたく、今日残る陣地を見ても、海軍が作ったものは鉄筋コンクリート製の立派なものが多いが、陸軍のものはあり合わせの資材で作ったものが多く、将兵の苦労が偲ばれる。 各陣地を地下でつなぐ地下交通壕についても、長さは計画では28キロであったが、構築中に上陸を迎えたため最終的には米軍の上陸時点で約18キロの完成であった。 又、築城資材だけではなく、糧食や弾薬、医薬品等も充分に届かず、厳しい気候と栄養不足のために病気で倒れていく将兵も少なくなかった。

そもそも、第109師団は、昔で言うところの予備役や後備役の将兵を招集して編成したような2線級、3線級の師団であり、将兵の年齢も40〜50歳代が主力で、大隊長クラスに至っては60歳代という状態であったため、特に古参の指揮官などは、栗林兵団長の命じたことにも十分従わないようなことがよくあったという。 前述したような過酷な環境での防御準備なので現場の指揮官(それも古参の)としては反発するのも無理はないところであるが、これでは作戦が成り立たなくなるおそれがある。 そこで兵団長は、部隊指揮官の率先垂範を厳しく要求したが、兵団長と古参指揮官との仲は非常に険悪になった。 それだけでなく、師団参謀長堀静一陸軍大佐(陸士29期)とも仲が悪く、堀大佐は師団長と口もきかなくなったと言われている(のち、12月30日に解任される。)。 一方、栗林中将は柔軟性に富む若い指揮官には大変人気が高かったという。

9月22日、野戦作井第21中隊、小笠原兵団に編入。

9月23日、米陸軍部隊がウルシー島を前進根拠地とするため上陸。 10月3日、米統合参謀本部が南方諸島(火山列島、小笠原諸島もしくはそれ以外の島)の攻略を指令、10月8日にはニミッツ海軍大将が進攻部隊指揮官ホランド・M・スミス中将に対して硫黄島を攻略目標とするよう指令した。 米軍は、援護機の配備や緊急着陸基地の確保並びに日本軍の対空戦闘阻止等のため、硫黄島の確保を必要としていたのである。

10月12日〜17日の間、台湾沖航空戦。 18日、捷一号作戦発動。 20日、米陸軍部隊がレイテ島に上陸を開始し、レイテ決戦が始まった。 25日〜26日にはフィリピン海戦があった。 11月1日、マリアナ諸島のB29が、東京上空へ偵察飛行を開始した。

11月10日、独立歩兵第274・275・276大隊が小笠原兵団に編入される。 その翌日11日から12日にかけて米艦が硫黄島を艦砲射撃した。

11月24日、マリアナ基地のB29爆撃機70機が東京初空襲。 日本軍は硫黄島の海軍航空部隊により応戦し、年末までにB29を29機撃墜した。

11月27日午前8時、硫黄島千鳥飛行場から大村謙次中尉率いる12機の零戦と2機の偵察機「彩雲」からなる「第一御楯(みたて)攻撃隊」がサイパンの米軍基地を攻撃した。 24日にB29が東京を空襲したため、その基地であるサイパン島を奇襲しB29等を破壊するためである。 レーダーに捕捉されないよう海面すれすれの高度で1,000キロ以上飛行の後、攻撃隊は地上で出撃準備中のB29へ銃撃を加えた。しかし猛烈な対空砲火と執拗な米軍機の追撃のため生還したのはわずかに偵察機の彩雲1機だけであり、当時は戦況や戦果が不明のままであった。 戦後になって、4機のB29を完全に破壊炎上、6機を大破、23機を小破させるという予想以上の大戦果を挙げていることが判明した。 また、大村攻撃隊長は、全弾を撃ち尽くした後、サイパンのアスリート飛行場に強行着陸、拳銃を手に単身米軍陣地へ突撃を行い、米兵との銃撃戦の末に戦死していたのである。 さすがの米軍も大村隊長の勇敢な行動に驚嘆し、遺体を手厚く葬っていたという。

同じ27日、混成第2旅団長が大須賀応少将から千田貞季少将に交替した。 栗林中将は、かねてから対着上陸作戦に長けた旅団長を欲しいと中央に要求しており、これに応じて千田少将が硫黄島に着任したものである。 大須賀少将は、本来ならすぐに内地に戻るべきところであるが、栗林中将によりそのまま第109師団司令部附となり内地に帰ることはなかった。 この辺りの事情については後述する。

12月8日、大東亜戦争開戦3周年のこの日、米軍は硫黄島に対して約5時間にわたる空襲と、更に1時間の艦砲射撃を行った。 これ以降、上陸開始まで毎日硫黄島に対する空襲が行われた。 

12月13日、独立歩兵第310大隊長京極義雄大尉が解任されて岩谷為三郎少佐が大隊長に、また独立歩兵第311大隊長芦屋元一大尉が解任されて辰見繁夫少佐が大隊長になった。

12月24日〜27日にかけては、米艦が火山列島・硫黄島を含む小笠原諸島を砲撃した。

12月30日、参謀長堀大佐が解任されて混成第2旅団司令部附となり、かわって高石正大佐(陸士30期)が参謀長となった。 栗林兵団長は、このように、硫黄島作戦を確実ならしめるために適材適所を追求し、それがため冷酷な人事を次々と断行していった。 職を解かれた高級・上級将校(元参謀長の堀大佐、元混成第2旅団長の大須賀少将、元伊支隊長の厚地大佐)を島から出さず、最後まで留め置いたのであるが、これは一般将兵の気持ちを考慮した故の処置であった。 当時の将兵は、厳しい状況下における陣地構築に疲れており、将校を含めて、内地に帰りたいという願望を誰もが持っているような状態であった。 実際、内地に帰るために自傷する者もいたくらいである(自傷した者は、規律維持のため銃殺刑に処されたという)。 また、栗林兵団長が居なければこんな苦労をせずに内地に帰れると考えて、巡視中の兵団長に軍刀で斬りかかる将校も複数いたという話もある。 そんな中で、職を解かれて島にいる必要がないからといって、高級将校だけを内地に返したら、一般将兵の心理に及ぼす影響が大きいと考えて、兵団長は敢えて彼らを島にとどめたものである。 当時の硫黄島の将兵の唯一の楽しみは、連絡業務で父島に行くことだったという。 父島は硫黄島とは違って、食料もあり、水も飲め、しかも風呂にも入れたので、まさに天国だったのである。 しかし、栗林中将は、父島にいる他の隷下部隊の指導等の業務があったにもかかわらず、自身は決して島を出ることはなかった。

昭和20年1月5日、米艦が硫黄島を砲撃。 9日、米第6軍がルソン島リンガエン湾に上陸。 24日、米軍有力艦隊が硫黄島を砲撃。 2月3日、米軍部隊がマリアナ群島に再度進入。 同日、米軍がフィリピンのマニラに進入した。 一方、日本では、2月6日、内地軍司令官に本土防衛任務を付与した。

2月15日、米軍の第5水陸両用部隊が硫黄島攻略のための訓練を終了してマリアナを出発した。 15日から16日にかけて、ミッチャー提督指揮下の重空母艦隊(TF58)が硫黄島への支援を妨害するため、のべ1200機の艦載機で、南関東、東海地方の軍事施設への空襲を行う。 上陸支援隊(TF52)は硫黄島に対して艦砲射撃と航空攻撃を実施した。 スミス海兵中将は、16日の記者会見で、「攻略予定は5日間、死傷は1万5千を覚悟している。」と説明した。 

2月17日、戦艦6隻を中心とする100隻以上の米艦隊による砲撃や航空攻撃を開始、2万トン以上の熾烈な砲爆撃を受けるが、地下の陣地に潜んだ日本軍の戦死者は、米艦艇を砲撃して応射された摺鉢山の海軍砲台の54名を含めても95名にとどまった。

2月18日、摺鉢山の海軍砲陣地が米艦隊の猛射を受け壊滅。

2月19日0640、硫黄島沖に集結した艦隊による艦砲射撃が開始、直後に9,500発のロケット弾が発射された。 0805、米空母部隊からの航空支援(120機)があり、上陸海岸及びその周辺を猛攻撃した。 0902、海兵隊上陸第1波(水陸両用装甲車約500両、上陸用舟艇250隻)が硫黄島の南海岸(※上の写真の右側の海岸)に上陸を開始した。 海岸左翼を第5海兵師団、右翼を第4海兵師団。 0905、第2派上陸、南海岸の海岸線3キロ全面にわたって次々に上陸した。 1030には、歩兵8コ大隊戦車1コ大隊が上陸を完了した。 海兵隊は、海岸達着までの間に大きな損害を出すのではないかと予測していたが、実際には日本軍による攻撃はなく、上陸部隊は、2、3の地雷を発見しただけで抵抗が軽微であったため、猛烈な上陸準備射撃により守備隊は全滅したのではないかという推測さえした。

そんな時、満を持した守備隊の猛射が海兵隊に浴びせられた。 日本軍は、苛烈な砲爆撃に耐え、ただこの瞬間を待っていたのである。 これは、栗林兵団長が事前に、過早な射撃を開始せず配備の秘匿と損害の局限を指示・徹底していたためである。 粟津大尉が指揮する南地区隊(独立歩兵第309大隊基幹)は、戦車1コ中隊を含む第4海兵師団の主力を要撃した。 中でも、清水大尉の指揮する速射砲第8大隊は、米軍の水陸両用車に対して効果的な射撃を行った(水陸両用車約20両、戦車搭載上陸用舟艇3隻、戦車ドーザ1両を撃破)。

1130、水際陣地は撃破され、米軍が突破。 1200、兵団長は、噴進砲(ロケット砲)の射撃開始を命令(実戦での使用は初)、これは命中精度は悪いものの、飛来音や爆発音の高大、強力な殺傷力のため、海岸の米兵はパニックに陥り、海岸の部隊の混乱はますます顕著となった。

一方、摺鉢山の海軍砲は、上陸時にはすでに全滅していたが、守備部隊将兵の殆どは健在で、残存火器を駆使して米軍を釘付けにし、米軍は損害を続出し、進撃は停止した。

海兵隊は2,400名の戦死者を出し、死傷者が海岸に累々と横たわるという状態となった。 一時は狭い砂浜で一歩も動けない状態になったが、海兵隊は上陸を強行した結果、同日中に第4・第5海兵師団約4万名が上陸し、かろうじて海岸堡(と言えるほど十分な地積は確保できなかったが)は確保した。

栗林兵団長は、サイパン・グアムの戦訓から、夜襲等の「総反撃」の戦果が少ないことを研究しており、地積の狭い洞窟の多い陣地では、陣地を利用した火力戦闘が有利であるとの判断をしたのであった。 「一人十殺(いちにんじゅっさつ)」を合言葉にした出血戦法こそが栗林兵団長の決意だった。 これは上陸した米軍の予想外の展開であり、日本兵の姿は見えず、両側から砲銃撃が降り注ぎ、気が付くと火力包囲を受けて身動きが取れなくなっていたのである。 このため、当初予定していた第1次目標線には程遠く、進撃は遅々として進まなかった。 守備隊の射撃は熾烈を極めたが、それに対する米軍の砲爆撃は量的に更に上回っていた。

2月20日0830、小雨の中、全線にわたり米軍は攻撃を再開した。摺鉢山に向かう部隊と北方の日本軍主陣地に向かう部隊(米軍主力)に分かれて進撃した。 米軍艦載機の攻撃はのべ360機、艦砲射撃は約4,000発に及んだ。 1200、千鳥飛行場が占領された。 飛行場の確保は海軍の強い要望により陸軍もセメントと引換にやむをえず協力したわけであるが、所詮、敵の圧倒的な砲爆撃に対して拠るべき地形の乏しい水際の飛行場を長期間確保することなど到底出来なかったのである。 これにより、北の兵団主力と摺鉢山守備隊とは完全に遮断されてしまった。

摺鉢山には、当初、陸軍2コ大隊1,060名と海軍640名の合計1,700名で守備していた。 2昼夜にわたる激戦で兵力の7割を喪失し、米軍上陸の前日に兵団司令部から戦闘指導のため派遣された厚地大佐も敵弾を受けて戦死した(なお、厚地大佐は摺鉢山守備隊の最高指揮官等としている資料等が多いが、これは誤りである。厚地大佐は兵団司令部の「派遣幕僚」であり、守備隊長松下少佐に対する指揮権そのものを持っていたわけではなかったので、微妙で難しい立場に置かれていたことが推察される。)。 20日夕方までに第2線陣地を失い、22日夕方までに残存兵力は約300名となり、摺鉢山の山脚部はほとんど米軍に包囲されてしまった。

2月23日1000、米軍は北側登山道から摺鉢山山頂に近迫し、山頂守備の日本兵数名と交戦した。 1031、第5海兵師団第28海兵聯隊第2大隊ウェルズ小隊が摺鉢山山頂に初めて星条旗を立てた。 この時の模様は同行した海兵隊写真班員ルイス・ローリー軍曹により撮影されたが、この時の写真は、午後に星条旗が再掲揚された際にAPカメラマンのジョー・ローゼンタールが撮影した写真の方が先にマスコミに出てしまったため影が薄くなってしまった。

星条旗は午後に入ってLST799号の儀式用国旗(縦1.2m、横2.4m)に取り替えられたが、これはわざわざAP通信のカメラマンであるローゼンタールを呼び、更にゲーノスト軍曹(後に硫黄島で戦死)による映画撮影を行うなど、マスコミや国民を強く意識した行為で、今で言うところの「やらせ」である。 ローゼンタールの有名な写真はこうした中で撮影され、”歴史的”な写真となったのである。 この様子を見た海軍長官フォレストは、「これで500年は海兵隊は安泰だ」と語ったという(海兵隊不要論は古くから米軍内にあり、当時も海兵隊をつぶしてしまおうとする動きがあったため)。

しかし、摺鉢山の日本軍はまだ残っており、その後1週間ほどは、日中は星条旗が翻り、夜になると洞窟陣地から出てきた日本兵が星条旗を引き倒して日章旗を掲げる、ということが繰り返されていたという。

23日夜、地区隊長松下久彦少佐は、包囲網を突破して北方の旅団主力と合流しようとして、残存兵力約300名をもって総出撃を敢行、2300頃敵の戦線に潜入した。 しかし、その殆どは途中で戦死し、わずかに水野軍曹等25名が旅団主力に合流を果した。

2月21日から主陣地でも戦闘が始まっていたが、2月25日に戦闘加入した第3海兵師団が27日には元山飛行場北側地区に進出した。 米軍の進撃につれて日本軍の損害も増大しており、硫黄島の兵団全体の戦力は2分の1、第一線は約5分の1にまで低下、火砲・弾薬も3分の1に減少していた。 通常、部隊が組織的戦闘力を発揮するには最低でも60%〜70%の充足がなければならないことから見て、普通の軍隊なら既に壊滅して降伏するところである。 しかし、栗林中将は、各地区の戦線を整理し、最後まで極力持久を図ることを決意した。

一方、米軍側の損害も膨大なもので、第4海兵師団のある小隊では小隊長が5人も交替した。4人目の曹長が戦死すると5人目は少尉が着任した。この少尉もすぐに戦死したが、この時小隊は全滅したので6人目の小隊長はいらなくなった。

3月3日、第5海兵師団が北飛行場を占領、翌4日にはB29が硫黄島に初めて着陸した。 同じ日の日本軍の残存兵力は約4,100名となっていた。

3月5日、米軍は一時前進を中断して部隊の休養と交代を実施、新たな攻勢の準備を行った。 3月6日、1日の休養の後、米軍は132門の火砲による砲撃で攻撃を再開した。 同じ日、米第15戦闘機戦隊が硫黄島に到着した。

3月7日、第2混成旅団長千田少将は、栗林兵団長から玉砕を強く禁止されていたので、海軍硫黄島警備隊司令の井上大佐らと共に、残存兵力をもって兵団主力に合流すべく移動を開始(※防衛庁の「戦史叢書」等には、地下壕の上を米軍に占領された千田旅団長が兵団長の指導に従わず総攻撃を実施して戦死したということになっているが、当時現地にいた人々の証言や千田旅団長と思われる遺体の発見などから見て兵団主力への合流を図ったのは間違いないと考えられる。)、3月8日1800、旅団砲兵は残存火砲全弾を使用して一斉射撃を開始、2330、各所で米軍と白兵戦を繰り広げた。 生存者の内約100名は旧陣地に復帰、約300名は兵団司令部近くにまでたどり着いたが、米軍の激しい砲爆撃により身動きが取れなくなり、現在の「千田狭間(せんだはざま)」で千田旅団長らは自決した。 なお、この間の米軍の損害は、戦死90名、負傷257名であった。

3月10日、第4海兵師団が東海岸に進出。 この日までの日本兵の捕虜は111名(うち44名は朝鮮人軍属)で、全て意識不明の状態で収容されたものであった。 

3月14日、第5海兵軍団司令部で公式国旗掲揚が行われた。 それとは対照的に、歩兵第145聯隊の軍旗奉焼が聯隊長池田大佐により行われた。

3月15日、海軍部隊指揮官の市丸少将が兵団司令部に合流した。 この時点での兵団の残存兵力は約900名であった。

3月16日、兵団北地区拠点が米軍の掃討を受ける。 1800頃には惨烈な戦闘は実質的に終了し、米軍は硫黄島の完全平定を発表、これ以降は掃討戦に移行した。

3月17日2400、栗林兵団長は大本営に決別電報を発信した。 この夜、兵団長は、襟章、重要書類、私物等を焼却、司令部洞窟内に全員を集めてコップ1杯の酒と、恩賜の煙草2本ずつを配った。 そして、「たとえ草をはみ、土をかじり、野に伏すとも、断じて戦うところ死中自ずから活あるを信ず。ここに至っては、一人百殺以外にない。本職は、諸君の忠節を信じている。私の後に続いてください。」と述べ、出撃準備にかかった。

3月25日、栗林兵団長と市丸海軍少将は白たすきで先頭に立ち、最後の総攻撃が開始された。 大須賀少将、池田大佐、高石参謀長など総員約400名であった。 この攻撃は、いわゆる「万歳突撃」ではなく、敵に破壊と混乱をもたらすという明確な作戦目的を持った攻撃であった。 翌26日0515頃、米軍野営地に突入、一帯は約3時間にわたって敵味方入り乱れての白兵戦となった。 そして米兵約170名を殺傷したが、栗林中将以下大部分は壮絶な戦死を遂げた。 これにより、栗林兵団の組織的戦闘は終了し、爾後は、生き残った島内各地の将兵によるゲリラ戦が終戦まで続くことになる。 生還者は僅か1,033名だった。

これより先、大本営は、3月17日に発信された決別電報に基づいて、3月21日1200、硫黄島の玉砕について発表した。

硫黄島の戦いは、米軍28,686名の戦死傷者日本軍20,129名の戦死者(軍属となった島民82名を含む)を数え、戦死者としては日本軍の方が多かったものの、トータルの損害としては米軍が日本軍を上回るという大きな戦果を挙げた。 彼我の相対戦闘力を考えればこれは驚異的な戦果である。 硫黄島作戦の意義としては、硫黄島激戦の影響により米国内の講和機運の醸成が挙げられる。 実際、国務次官グルーと陸軍長官スチムソンは早期終戦のための努力を行なった(国務長官により阻まれた)。

戦後、米軍の占領下に置かれた硫黄島は、昭和43年6月26日、小笠原諸島と共に日本へ返還された。 しかし政府は、火山活動と産業の成立条件が厳しいことから、昭和59年、「一般住民の定住は困難である」と決定し、未だ旧島民の帰島が叶わない特異な島となっている。 現在は、海上及び航空自衛隊が管理しており、一般住民は在島していない。

また、戦後半世紀を過ぎた今もなお1万2千柱もの将兵のご遺骨が島中に眠っている。 生還者やご遺族、旧島民の方々もご高齢となる中、硫黄島の遺骨収集は遅々として進まない現状にある。 硫黄島を訪問した際、たまたま硫黄島協会の方たちと一緒になり直接いろいろなお話を伺うことが出来たが、ご遺族や関係者の方にとっては、まだ硫黄島の戦いは終わっていないのだということを痛感した。



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(平成13年12月23日初掲)