硫黄島の戦跡

(東京都小笠原村硫黄島)

 

南地区隊地域@

 

扇浜から見た摺鉢山

このあたりの海岸は南地区隊の防御正面であった。南地区隊は独立第309歩兵大隊長粟津勝太郎陸軍大尉が地区隊長を務め、扇浜から南揚陸場までの幅約2キロの南海岸から元山飛行場までの縦深地域を守備していた。この地域には、独立混成第2旅団司令部が所在する玉名山(現在は空域監視レーダがある)や元山飛行場など重要地域が含まれており、地形上も、元山台地は周囲よりも高くなっており、硫黄島の東側の要域であった。

南地区隊は、一部を船見台及び水際陣地に配置すると共に、主力を南揚陸場北側高地から元山飛行場南西端にわたる地域に主陣地を構成した。この地域は土丹岩の台地であり地形も錯雑していたので陣地構築が比較的容易で、堅固な陣地が構成された。守備兵力は、陸軍3,600、海軍3,600であった。

粟津本部壕入口

粟津本部壕とは、南地区隊長粟津大尉の指揮所があった地下壕のことで、比較的保存状態の良い壕である。

写真は、何カ所か残っている粟津壕の入口の一つで、海岸側にある入口。地下で「鎮魂の丘」の出入口につながっている。

「鎮魂の丘」の下にある石碑

「鎮魂の丘」は、もと南地区隊戦闘指揮所や臼砲中隊の陣地などがあった丘を造成して、昭和58年9月に東京都が造った慰霊施設で、丘の上に黒御影石に刻まれた「鎮魂」の碑がある。

造成工事により崩された土丹岩層

鎮魂の丘造成に当たって、台地上を平らにするためにかなり地形が削られたそうで、元々は現在よりももっと高かったという。また、この工事の際、多数の臼砲陣地などが破壊されたということである。

粟津壕入口

鎮魂の丘入口左脇にある地下壕の入口

臼砲陣地跡

鎮魂の碑の右側にある陣地跡で、臼砲第20中隊又は第21中隊の臼砲の陣地跡である。土丹岩を掘り下げて造った掩体に石垣を積み上げて補強した造りであるが、掩体は雨で流入した土砂で埋まり石組みもほとんど崩れてしまっている。

なお、このあたりの陣地の石組みに使われている石は、海岸からわざわざ運んできたものだという。

臼砲陣地跡

碑の左側に残る臼砲の陣地跡。先ほどと同じく土丹岩を掘り下げて造った掩体である。

ノミかタガネで岩を削った痕

上の写真の掩体の一部を近くで見たところ。一見自然のままの岩を利用しているように見えるが、よく見ると手作業で岩を削り取っていたことがわかる。守備隊将兵の地道な努力と苦労が偲ばれる。

「鎮魂の丘」の慰霊碑

黒御影石に「鎮魂」の文字が刻まれている。天皇皇后両陛下の硫黄島行幸の際、両陛下は当地もご訪問されている。

コンクリート構造物

鎮魂の丘の裏側の道の脇にある。内部は深さ2メートルくらいの縦穴になっているが、地下壕の入り口なのか何なのかはわからない。通気口の跡かも知れない。

粟津壕入口

鎮魂の丘の裏側にある入口で、普段は立入り禁止となっている。

(平成14年2月3日初掲)