硫黄島の戦跡

(東京都小笠原村硫黄島)

 

中地区隊地域

 

千鳥ケ浜で発掘中のトーチカ

上陸地点と反対側の西海岸の千鳥ケ浜に行った際、偶然硫黄島協会の方々による遺骨収集の現場に行き会った。

ほんの数日前に発見されたトーチカをパワーショベルで発掘しているところで、この前日に中から遺骨が数体分発見されたという。

発掘に当たっておられた方(この方の兄上はこの付近で戦死されたとのこと)のご説明に拠れば、「これは陸軍のトーチカで中には機銃が置かれていたのではないか」とのことだった。

ただ、鉄筋コンクリートの立派なものなので、海軍が作ったものである可能性が高い。

南海岸の水際トーチカ

中地区隊(地区隊長:原光明陸軍少佐)は、千鳥飛行場を中心として西海岸・南海岸の中央部において陸海軍協同で水際陣地を構築していた陸軍部隊が、そのまま引き続いて同地の防御部隊となったものである。

陣地は上陸する敵を水際撃破するため海岸から約100メートル〜150メートルほどの線に造られたが、これは海軍側が飛行場防衛に固執したためで、栗林中将は水際陣地は上陸準備射撃によって破砕されることを予測していた。しかし海軍側からセメントを分けてもらうためにやむなく海軍側の要求に応じて妥協したものであった。

この地域は、飛行場を作るくらいであるから平坦で地形的に弱いところであり、上陸前の砲撃で陣地は壊滅、砂地で洞窟陣地もろくに作れなかったため、僅かに生き残った将兵は、破壊されたトーチカを唯一の防壁として壮絶な戦闘を繰り広げたという。

トーチカ内に残る機銃

火炎放射器で焼かれたためか、銃身が曲がっている。

銃眼から外を見る

今は草が茂ったり地面が隆起したりで海上が見えない。

再会の碑(陸地側)

昭和60年2月19日(この日は丁度米軍が硫黄島に上陸してから40周年に当たる)、「名誉の再会」と呼ばれる日米共同行事が米軍が上陸した二ッ根浜で実施された。参加者は、硫黄島の戦いに参加した日米両軍の将兵・遺族ら約500名であった。会場には両面に文が刻まれた記念碑が建てられ、日本文が刻まれた陸側(日本軍側)には日本人の参加者が、英文が刻まれた海岸側には米国人参加者が整列した。除幕と献花が行われた後、、双方の参加者達は歩み寄って握手や抱擁を交わし合ったという。その後も、平成7年3月に50周年記念行事、平成12年3月には55周年の日米合同慰霊祭が行われている。この碑の説明は通常ここで終わるのだが、しかし、日米両軍の将兵や遺族の間には、互いに割り切れない心情を有する方も多く、平成12年の慰霊祭では日米別々の会場で行なわれるなどいまだ心の中には複雑なものが残っている。

日本語の碑文

日本文は、元海軍硫黄島警備隊司令だった和智恒蔵元海軍大佐(海兵50期)の筆になるものである。

和智大佐は、硫黄島警備隊司令の時、兵站・情報を実質的に掌握していたこともあって、水上撃破・水際撃滅を主張して栗林兵団長を困らせたが、結局双方妥協して海軍の要望を一部取り入れた後退配備ということで落ち着いた。

一方、和智司令は島に上陸してきた陸軍部隊に水や掩蓋材を提供するため民家の廃墟や小学校を栗林中将に引き渡したが、これが海軍南方諸島航空隊司令井上左馬二大佐から咎められ、井上大佐が和智中佐(当時)にかわって警備隊司令を兼務するという人事が持ち上がるに至った。

井上大佐は早速海軍部隊への水の優先的配当を決めたため和智中佐と対立するようになった。

結局、和知中佐は、大佐昇任と同時に昇任を理由として昭和19年10月横須賀鎮守府附となり不本意ながら島を去ることとなった。

その後、島で苦楽を共にした部下達は大半が戦死してしまった。

終戦後、復員の際、家には戻らず京都の天台宗空也堂で得度して僧侶となり、硫黄島協会を設立、89歳で亡くなるまで生涯を硫黄島の将兵の遺骨収集や慰霊活動に捧げた。

下の写真は、再会の碑を海岸側から見たところ。

(平成14年1月18日初掲)