日本語の碑文
日本文は、元海軍硫黄島警備隊司令だった和智恒蔵元海軍大佐(海兵50期)の筆になるものである。
和智大佐は、硫黄島警備隊司令の時、兵站・情報を実質的に掌握していたこともあって、水上撃破・水際撃滅を主張して栗林兵団長を困らせたが、結局双方妥協して海軍の要望を一部取り入れた後退配備ということで落ち着いた。
一方、和智司令は島に上陸してきた陸軍部隊に水や掩蓋材を提供するため民家の廃墟や小学校を栗林中将に引き渡したが、これが海軍南方諸島航空隊司令井上左馬二大佐から咎められ、井上大佐が和智中佐(当時)にかわって警備隊司令を兼務するという人事が持ち上がるに至った。
井上大佐は早速海軍部隊への水の優先的配当を決めたため和智中佐と対立するようになった。
結局、和知中佐は、大佐昇任と同時に昇任を理由として昭和19年10月横須賀鎮守府附となり不本意ながら島を去ることとなった。
その後、島で苦楽を共にした部下達は大半が戦死してしまった。
終戦後、復員の際、家には戻らず京都の天台宗空也堂で得度して僧侶となり、硫黄島協会を設立、89歳で亡くなるまで生涯を硫黄島の将兵の遺骨収集や慰霊活動に捧げた。
下の写真は、再会の碑を海岸側から見たところ。
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